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光太郎友の会は40年の歴史を持つ俳優 武田光太郎を応援する後援会です
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新連載
ノンちゃん曇りのち晴れ 紺碧の海と空の物語
この作品は父の生涯と私の人生が交叉するハイパー小説
第一章
石狩平野から富良野に続く北の大地その空は広く深い,青白い煙を上げ勇壮に走るSLデゴイチのパワーが大空に煙をなびかせ野球少年のりよしの肩に疾風を巻き上がらせる,握りしめたスケッチブックをまいあがらせる。
ときは大正11年 十勝川の旭橋近くの土手神楽丘の丘陵が見え遠くに大雪山が雪化粧する姿があった。 毎日の様にスケッチブックをかかえていつものお気に入りの場所この土手が特等席だ。 かぜは冬の気配を感じる9月,そこにひ弱で痩せっぽちなで繊細な少年が息せき切って近づく旭川駅前の大きな文房具問屋の息子でのりよしの親友亮一だった。
「おーいノンちゃん明日札幌で院展の審査委員で北海道を代表する洋画家上野山清貢先生がくるらしい君は絵が上手いし色使いが深く鮮やかだから絶対に絵描きになるべきだよ」
野球が好きだったのりよしはスタルヒン球場で野球の試合に出た事がある在京ラジオ放送でアナウンサーが武田君打ちましたホームラン、スタルヒンは白系ロシヤの血をひくパン屋の息子のちに読売球団の大スターにその店のピロシキが好物だった。
一族が高知から天領だった現旭川空港近くを分け与えられこの地に居をかまえた。 戦後農地改革で土地を提供したものの一族が結集して土地に根ざした事業を広げた。
札幌 持っている金をかき集めて汽車に飛び乗り院展会場に、沢山の取り巻きに中の真ん中にいた上野山清巧画伯.思いっきりの勇気をふりしぼり持っていたスケッチブックを見せることができた。「武田君かスケッチブックの名前をみて、絵描きになりたいなら私のうちに来なさいと名刺を渡して下さった」天にも昇るおもいであった。名刺の住所は東京市中野だった。
現代 父と私
昭和最後の年の瀬、スキーに行っている母、父に何で食べないかと聞かれて別にされてから父の前で悟られ前と無口になる自分がいた5歳から12歳までかくも長き不在その間」三回しかあっていなかった私,小学校3年生の時パリから一時帰国した父にパパはヨーロッパに行かなければ絵が描けないのと言うシーンが脳裏に浮かぶ 父が75歳になってもその寂しさのトラウマは消えない.父が完全に帰国したのにも関わらず中学は男子寮に入る事に
つづく
現代 三丁目の夕日時代、5歳の年羽田特別待合室で父のパリ行きの壮行会 円は360円の時代 渡航目的を申請 相手国の受け入れ先がなければ渡航許可が受けられない時代母のお手製の服を着てお気にりの双眼鏡 ベレー帽をかぶり夢に続く空港にまるで宇宙の扉のような場所 ルンルンだった少年 これから未来になにが待っているかも知らなかった 北海道からくる親戚勢がくればカーテンの片方から紐をスルスルして独り舞台の始まり髭やかつらをかぶり演じることがすきだった これ見よがしのパホォーマンスで笑われることが好きだった ある冬の日お家お手製舞台で後ろに下がりすぎてアラジンストーブにすわりハート型にズボンが焼け焦げた時も 折り紙 絵本、リリアン網が好きだった 女の子をあつめて輪を作り田んぼの真ん中でデイジーの花の首飾りの作り方を教えたり小川でどじょう掬いザリガニ釣り それは男の子に頼み見学収穫だけをチャッカリ貰う 体育の時間は急に頭がいたくなり休んでばかり 人前でスポーツすることなどナンセンス 5歳から美しいピアノ教師R先生に家庭教師で家に来て教えてもらう 先生がフランスに行きやる気をなくした物のの6年生まで7年続けてたものの物にはならずフルートにそれも呼吸困難になり救急車で運ばれやめる 兎に角変わった子供でしたデザイナーだった、母のお弟子さん乳母 住み込みのお手伝いさん 9歳上の姉兎に角女所帯 女の子のようだった ある日父のファンだった中村メイコさんのご両親が一時帰国中の父を訪ねてこられててメイコ劇団ニンジンに入らなないかと母はその様な事はさせたくないときっぱりと断ってしまった。 悔しかったけど素直な私は直ぐに受け入れた 趣味は三面鏡の無限の自分の顔を見ること 映画音楽をかけながら 母に大人になって訪ねた事がある 「なんでトラック運転手の様な男らしい男に育てなかったの」と聞くと「母子家庭の環境で乱暴な子だったら扱いずらいでしょう」って、しかし学校では不思議といじめられなかった何故だろう
つづく
大正後期から昭和の初め、そうノンちゃんはどうしたかと言うと、絵描きになると父親に言うと猛反対の末 思いは腹の底に置き親の言う通り旭川の農学校林業科に進学、しかし卒業と同時に勘当同然で東京行きを決意、先生の中野の家を訪ねるのであった それから過酷な書生時代が始まる アルバイトは新聞配達 先生のご子息お嬢様の世話から雑用までしかし絵の勉強が出来ればなんのその 髪はもじゃもじゃ長髪天然パーマ髭面 226事件の大雪のなか怪しいフーテンに間違えられ5回も検問に引っ掛かり先生からを持たされいていた
其のころの風体は長髪アイヌの装束に腰ひも変わりに縄を巻いて歩いていそうだ、捕まるのも無理ない正義感強く新聞屋の同僚の在日青年が病気になった時仲間から基金を作って助けたそうでしかし虚しく亡くなった 世の中の不公正を許さない熱血漢だった先生の家庭の問題にも真っ直ぐに向かい騒動も巻き起こす曲がった事がきらいな性格だった しかし絵は他を追従しない筆使いと適格な構成力で実力は秀でていた 北海道出身の若手画家の代表であった。しかし時代は大きく旋回し軍靴の足音が激しくなっていくそんな頃かねてよりあこがれていたゴウギャンの風景を求めて日本統治されていた南洋諸島現パラオ諸島に出発を決意 銀座で開いた個展は全て作品が完売 当時一軒家が買えるお金が入り壮行会では自腹で料亭をかりあげ三日三晩芸者を上げ飲めや歌えの大騒ぎ旅費以外全て使う一斗樽酒3樽飲み干す逸話がある程の大酒豪 南洋に招聘してくれたのは爵位を持つ彫刻家土方久功氏だった 東京港をオーダーした白の麻のスーツで颯爽と出帆したのである。
現代 戦前に南洋諸島に4年間行っていた作品は東京を皮切りに高知から沖縄へと南洋諸島に行った芸術家たちで紹介された 私は其の時代の情報は全く知らない この全国展に出品された作品はネットを駆使して旭川の骨董店で発見された 北の育ちの父が温暖な楽園の色彩を強く求めたのであろう もしかしたら私に似た現地人がいるかもしれない、なにしろ30代半ばのイケイケの独身青年であったのだから 其のころの写真集があるがこしみの姿の放漫な女性、金は大きな穴の開いた石だったとか 私は最終地沖縄県立美術館のオープニングに出席した 種の起源を求めた日本を代表する芸術家たち膨大な作品群に圧倒する史実に残る展覧会であった。 つづく
昭和9年、私の出演した舞台川島芳子物語「男装の麗人」「迷宮白波ホテル」の時代、盧溝橋事件の勃発から第二次世界対戦の始まりで4年間の楽園生活も引き上げ船で帰還することとなった 時代の色は灰色に楽園から一気に暗闇に入っていった母国に帰ってきた 徴兵検査も受けたが肺に影があると後援者の医師からの診断で軍事教練だけを受けたようだ しかし何だかの職業に就かなければならず女学校の代用教員に付き生物の教員になった女子学生には絶大な人気教師だった出兵しなかった貴重な男であった事は大きい 人生で絵描き以外の職に就いたのはこのときだけでである。 東郷元帥からの命令でなくなくプロパガンダ絵画も描いたそうだ 昭和19年旭川は練兵所があったものの空襲は最小限だったようだ。。
そんな中街の有力者に勧められ「武田くんもそろそろ身を固めるのはどうだろう」と言われるがままにトントンと見合いの準備が進む 「旭川高女成績トップのお嬢さんがいる」といわれお見合いの当日 スーツと一張羅のコートを着込み雪降る旭川の縛れる街常磐公園の入り口に佇む麻生木材の社長邸にに着いたのは6時を回った 大きな門構えを入りごめん下さいと叫ぶと中から女中に案内さえれ大広間に案内され早速紹介者と麻生木材社長がむかえてくれ早速酒盛りが始まった戦争末期の物のない時代に奥の広間に何という事だ一斗樽酒が無類の酒好きにはたまらなかった酒席は盛り上がる障子の隙間から湯原妙子が隙間から覗く家人は妻は姉の嫁ぎ先だった。妙子も何だか職業に就かなければならず姉」の会社の事務員と軍事工場に行く日々であった。範芳の事は北海道新聞に連載された南洋紀稿記事や時々行ったカフェで絵を見たことがある。
酒もまわり玄関に帰り支度をしたいると妙子が初めて出てきてコートを着せかけたしかしコートの中袖に穴が開きそこに手が入り中々うまく着せかけられない、それまで緊張していた妙子の顔があまりの可笑しさに笑みがこぼれる 妙子とその時初めての対面であった。
つづく
妙子 私の母の事に触れます。母の父私の祖父 湯原栄吉 千葉茂原の庄屋の息子 次男坊であったため屯田兵に志願そののち当時花形だったSLの機関士に転職いつも勤務して通る狩勝峠の村落合に目を付け其処の土地の開発に手を伸ばし湯原旅館はじめ木材業 札幌中の島の料亭経営 なぜならそこ峠のため機関車の入れ替え要所だったからだ 駅弁事業や地場産業開発 三浦綾子作「塩狩峠」や浅田次郎作「ポッポ屋」の舞台にもなった場所である 妙子は八人兄弟姉妹の末っ子男は一つ上の兄ひとり 和洋服は全て日本橋三越から取り寄せた山田流のお琴の名手数学と生物が好きな少女であった しかし妙子18歳時父栄吉は山歩きの傷から破傷風悪化あっけなく天に召された 母は父っ子だった道内でも指折り難関校旭川高女受験の折には 世通しの厳しい受験勉強の夜には良く蕎麦掻を作ってくれたとか 突然の死には大きな落胆を抱いたに違いない。将来の夢は母は女医になりたかった しかし母をひとりに出来ない事と女性が職業を持つことを許されない世の中で泣く泣く夢をあきらめ見合いに臨んだわけだ しかし見合いの席で範芳は「ぼくは一生絵で身を立てていきます」と堂々と宣言していた あの見合いから絵描きに嫁がせる不安を持った姉 博子は親友亮一の文房具問屋の上にあるのりよしの部屋を密かに訪ねる そこには蓄音機でベートヴェンが流れ洋カップに角砂糖 物のない時代になんとセンスのいい暮らしであった それも戦争末期にびっくりしすっかり見直した トントンと婚礼の準備は進み昭和20年1月13日旭川一の料亭で婚礼の披露が執り行われた。
つづく
姉博子が訪問した文房具問屋の2階で新婚生活が始まった。 つましいけど外国の匂いがする部屋であった。下に住んでいる亮一とまるで3人暮らしのようであった。後になって聞いた所によるとあの蓄音機もティーカップも角砂糖の全て亮一からかりたものだった 3っ日にあげず亮一が訪ねてくる、最初は楽しかったものの毎日の様だと妙子も煩わしい そして昭和20年8月15日旭川のとても美しい季節亮一宅で聞いた玉音放送、雑音で聞き取れなかったが確かに日本は敗戦した事だけは聞き取れた。涙はでなかった 悔しさもなかったただきつねにつまれているようなその後ラジオからはジャズと英語放送が安堵と生ぬるい真綿につつまれた感触 しかし今まで色を失っていたものは鮮やかな色を取り戻したある日買い出しから帰ってきたノリヨシは台所に駆け込む妙子、慌てて親類の医院に運ばれた。おめでたであった。 のりよしは飛び上がった ノリヨシは絵の写生 立ち上げていたロマン派の会合 買い出し しかし亮一は上に上がってこなくなった。 そうかと思うと外で泥酔して「武田 俺の話をきいてくれよ 頼むから聞いてくれ」と叫ぶ声が振り返れば戦中戦後 自分を支えてくれたのは亮一だった 絵具画材の提供。 一緒に登った大雪山 妙子のお腹もめだつようになった。11月買い出しから帰り久ぶりに亮一の部屋を訪ねたノリヨシは奥の風呂場で血の海で横たわった亮一、ノリヨシは亮一をだきしめ血だらけになり天に嗚咽した。 何でもっと話しを来てやらなかったと後悔しても もう命はなかった 自殺であった。 妙子も震えお腹の子をおさえて号泣した それから21年1月待望の第一子真理子誕生 しかし真理子さえもへその緒からばい菌が入りわずか三か月で天に召された。 ノリヨシに」とってどん底であった 戦後のドサクサと長かった戦争の傷跡。 親友亮一 愛娘真理子の早すぎた死。
人生の岐路の立たされた亮一の死のあと陸軍の借上げ住宅二区番外地に引っ越し昭和22年6月1日娘 梢が誕生 梢が5歳になるころ一代決心して東京狛江に家を買い移り住む事に 昭和の政治家 中野正剛の別邸 その中にあるベストセラー作家 花田清輝の住まいと天皇から拝領した白い馬がいた馬屋をアトリエに跡した慈遊庵と名付けられた広大な屋敷の一角である そこはかつて昭和の歴史の舞台でもあった この家から先多摩川まで馬場だったと言うのだから何と広大な面積だろう 家に入る入り口には大門があり守衛の部屋もついていた 226事件の後天皇を戦争に加担させまいと反抗し千駄ヶ谷の屋敷で自決を図る国粋主義者 ヒトラーを日本に繋げたのも彼であった。一方花田清輝も戦前に「真善美」という小説がベストセラーになり戦後も多数の戯曲 出版物をてがけた九州黒田藩の繋がりでここに居を構えた、後に帝京大学学長になる中野氏の息子さんから「先生もここに来ればベストセラー作家になります」といわれ二つ返事で買うことを決心 親友を失い第一子の真理子を失うどん底から這い上がって手に入れた家だった その意味でも梢に対する愛情は大変なものだった 幼稚園は修道院の中にある大和幼稚幼稚園に父が送り迎えをかって出る 「あなたのお爺さん迎えに来てるよ」と言われたほど父は老生していた様だ。 ただここはとっかかりで親子三人でブラジル経由でパリに移り住む計画だった。 その時は割と早くやってくる 昭和25年夏荷造りも済ませ明日発つ前の日、ノリヨシは倒れた、大量吐血し診察した医師によればもう時間の問題と目の前で言われ激怒した。 父は目の前の命を見捨てるとはと必死に病院を探し当時の最新治療の肺気胸の施術を出来、受けいれたくれた国立中野の結核療養所に入ることになる、長い闘病生活の始まりであった。
ああちゃんとわたし
姉と私は九つ離れている、羽田で父を見送ったときはすでに14歳であった。 中学3年生から家のお手伝いさんの給料 電気水道光熱費支払い 外国に行く母からテーブルに封筒が並んでるのを鮮明に思い出す 其のころ祖師谷小学校から桐朋学園に朝五時に起きて弁当を作り家の管理をして幼い弟の面倒をみていた 見られていた私 想像絶する大変さであったと思う 母はあの結核で倒れた後露頭に迷い決心したのは女が出来る安易な仕事ではなく学校に行きなおし伊藤茂平デザイン研究所の門をたたき3年後祖師谷に小さなブティックを開く 卒業してすぐ手探りでウエディングドレスからスーツ、コートを仕立て縫子を同居させ八面六臂の生活だっただろう。姉も母も目いっぱいだっただろう。姉の学校は女子のみのため時々遊んでくれる姉の美しき友達に遊んでもらうのが楽しみであった。周子ちゃんはピカイチでよく覚えてる 其のころの姉はその当時のスター二木てるみに似た可憐な少女であった 数学がさ三度の飯より好きで体育も万能、後に大学工学部進学後ゴルフ部に入り大学選手権に出場 良妻賢母より出自都合兼と言う言葉が似あう私の自慢の姉である 現在は建築士である 一番近い大事な身内お母さんの呼び名「ああちゃん」と呼び名で呼んでいた私 その呼び方は同級生だった義兄と結婚するまで続いた。巷に「瀬戸の花嫁」が流れていた頃大学卒業後すぐに結婚した。寂しかった。姉とっては過酷な芸術家一家からの旅立ちであった 大変だったね感謝 晩年母が言っていた「あんたたちは絵描きの子供としたはまともに育った方よ」とそうかなと思う私。
療養所から華のパリへ
昭和27年 中野療養所に入院したノリヨシは最新治療のかいがあって快方にむかっていた そこで一緒の入院していた人物達は日本を代表する頭脳の持ち主達であった 政治学者で思想家の丸山真男氏 後に東大総長となる大河内忠雄氏 日銀総裁となる山際正道氏と錚々たる人物に出会う事に後に父の絶大な後援者となるのである。
あの羽田空港国際線待合室からパリに発つまで東京に出て10年の歳月 闘病見事にパリへ行く国際賞への挑戦の道が開けた。オランダ経由でパリへゴウギャン・ルオー・セザンヌはじめ印象派の絵描き達がこぞって居を構えたモンパルナスアベニュのホテル・リベリアに住む事に10年の間死闘を繰り返し国際画家をめざした その昔ナポレオンが自ら授与したというル・サロン金・銀・銅賞に輝くまで続く 昼下がり母の仕事場で横で絵を書いて遊んでる私の横でパリからの手紙を受け取った母が手紙を読み涙が手紙を滲ませ震えているそこには「バンザーイ、バンザーイ、バンザーイ 獲った 金賞。 大きな字で喜びが飛翔してるかの字で 妙子やった」ママどうしたのと聞くとバンザーイの文字を指し「パパがとうとう快挙を達成したのよ」と肩を震わせた。自分の母の死に目にも合わずこの人を世に出すまでは歯をくいしばって支えた母の苦労は計り知れない 人は信じれば希望と努力を積み重ねればきっと達成すると父から教えられた日でもあった。 小学校5年の冬であった。
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